ミレイ大統領の政策自体への批判よりも外見・態度への嫌悪感
3月22日。アルゼンチン最大のワイン生産地メンドーサ。ここのホステルで同宿した36歳の大学教員は、ミレイ大統領をWorst Crazy Presidentと酷評。インフレが収まったことは評価するも、ミレイの改革を資本家・富裕層は大歓迎しているが、国民の過半数を占める貧困層は苦しんでいると。
(注)貧困層に対する給付金など、ペロン党政権では国家予算の半分を占めていたという貧困対策費をミレイ大統領はほぼ全廃。
インフレが収まっても物価は高止まり、年金・退職金は据え置かれたため、高齢者は生活できない。大学教員氏はメンドーサ市内で年金生活者のデモを目撃したという。TVでも老人デモ隊と警察の機動隊の小競り合いが報道されていた。
3月24日。メンドーサ市内のイタリア公園で3歳と1歳の2人の子どもを連れた女性。夫は市内で2軒のレストランを経営。物価が高止まりして、食材の仕入れコストが経営を圧迫していると嘆息。ミレイの政策そのものについては特に意見はないが、彼の極端な言動や傲慢な態度が大嫌いとのこと。
アルゼンチンでしばしば耳にした、アンチ・ミレイの理由はミレイ大統領の風貌(長髪と長いモミアゲ)、言葉遣い、不遜な態度など政策そのもの以外の外見や、人格に関わるものが圧倒的に多かった。7万人の公務員削減や貧困対策補助金廃止など、ショック療法で当面の生活は苦しいが、その先にある構造改革の効果に望みを託す人々が多いのだろうかと想像した。

ムレスもいる。
閑古鳥が鳴く左派の反政府集会、お題目は歴史問題と緊縮財政反対だけ
アルゼンチン到着直後に見たブエノスアイレスの“5月広場”での左派の政治集会が余りにも活気がなかった(『「アルゼンチンのトランプ」ミレイ大統領ってどんな人物か?予想外の支持、勢いのない伝統的ポピュリズムと左派勢力(前半)』ご参照)が、その後各地で見かけた集会も同様であり一般市民は無関心に素通りしていた。
3月24日。メンドーサ市街の中心であるサン・マルティン広場の片隅で、30人くらいのペロン党(正義党)の若者が、音楽に合わせて踊りながら、シュプレヒコールを叫んでいた。バナーには5月広場での集会と同様に、半世紀前の軍事政権によるペロン主義者暗殺問題追及を意味する“記憶、真実、正義”と緊縮財政反対を意味する“ノーモアIMF”のスローガンが躍っていた。
4月17日。アルゼンチン北西部のサン・サルバドル・フフイの中心ベルグラーノ広場。“無力な司法は司法ではない、独立した正義の執行を要求する”、“フフイに司法は存在しない、犯罪者は処罰を免れている”、“陪審員諸君、完全に独立した司法を保証しろ、処罰免除は司法の不在だ”などと勇ましいスローガンを掲げたバナーが並んでいた。
しかし実際に現場にいたのは、古参のペロン党員の年金生活者の3人だけ。しかも3人は仲間内でお喋りをしているだけで一般通行人に訴える意欲もなかった。
バナーでは、軍政時代のペロン党員(ペロニスト)暗殺問題を、フフイ司法当局が長期にわたり放置していることを糾弾していたが、老人活動家からは本気度が微塵も感じられなかった。
5月1日メーデーのブエノスアイレスの“5月広場”
メーデー当日。アルゼンチンの政治集会の聖地“5月広場”での大規模な労働組合連合会の集会を期待していたが、午後2時には未だ会場設営の作業中であった。特設ステージの両脇には、大型スピーカーが設置され“労働者党”(Partido Obrero)の党旗が立てられていた。ネットで調べるとなんと“トロッキー主義”(レーニンの一国社会主義建設に対して世界革命を標榜する共産主義)政党であり、下院に3人議席があるという。ステージの傍らに関連団体の“労働者の中核”(Polo Obrero)の旗が掲げられステージの前には1500人分くらいのパイプ椅子が並べられていた。
集会場の周囲には女性労働者会議、芸術家戦線、産別組合連合、退職労働者総連、清掃人組合、銀行員組合、国営公社組合、教員組合など労働者党に連携しているらしい組合組織のバナーが並んでいた。
そして各組合組織のバナーの反対側には労働者党のスローガンが掲げられていた。曰く“資本家に金を貢がせるIMF支配体制”、“労働者と左翼のXXXのために”
やはりミレイ政権に対する具体的政策批判はない。IMFは緊縮財政の見返りに海外の銀行団を説得して債務削減・支払い猶予をまとめたのであり、IMFをこき下ろす労働者党は国際金融の基本知識が欠如しているようだ。財政危機真最中の10年前のギリシアで聞いた新興左翼政党の幼稚な主張と酷似している。
集会開始の一時間半ほど前であるが、集会参加者の姿はほとんどない。5~6人のボランティアの若者がパイプ椅子を並べているだけ。例によって祝日の午後を楽しんでいる一般市民は迷惑そうに通り過ぎるだけであった。メーデーの5月広場の静けさは戦後アルゼンチン政治を動かして来た左派ポピュリズムとペロン主義の退潮を象徴しているのだろうか。
